
私たちの住んでいる町は、どのような変遷を経て現在に至っているのか、歴史のひもを解いてみましょう。江戸時代の絵図に上野国群馬郡天川原村(コウズケノクニ グンマグン アマガワハラムラ)と載っています。そのころまで「まやはし」と呼ばれ、厩橋とか前橋とかと表記されていた地名が、幕府の地名統一の必要から1649年に正式に「前橋」とされ、前橋藩(天川原村の取れ高何百石かを含む3万3千石・当初)が、明治4年の廃藩置県で前橋県になるまで続きます。
ちょっとその前に群馬県の変遷を見てみましょう。
| 明治4年 | 廃藩置県により、前橋藩から前橋県となりました。 |
| 明治4年10月28日 | 前橋県、高崎県、沼田県、安中県、伊勢崎県、小幡県七日市県が統合して「第一次群馬県」が誕生する。 |
| 明治6年6月15日 | 群馬県と入間県(現在の埼玉県北部地方)とで熊谷県に。 |
| 明治9年8月21日 | 群馬県と埼玉県が分割し「第二次群馬県」が誕生する。 |
| 1839年(天保10年4月) | 天川原村から、一八郷村、榎町、片貝町、紺屋町、萱町、本町、白根町、鍛治町がが誕生する。 |
| 明治10年3月30日 | 東群馬郡前橋町天川原村。字として、東下、東上、屋だ、松前、薬師前。東下が現在の天川原町1丁目付近。東上は文京町2丁目付近。 |
| 明治13年 | 前橋町から離れる。 |
| 明治17年 | 明治13年前橋町から離脱していたが、前橋町に復帰する。 |
| 明治21年頃 | 県は前橋付近の新町村名とその地域を次のように試作した。六供村、橳島村、天川原村、市ノ坪村、前代田村・宋甫分村を「供田村」とした。 |
| 明治22年4月1日 | 41町村が合併し、前橋に町制施行する。天川原村は、近隣の12村と合併して「上川淵村」になる。その時、天川原の一部が前橋町に編入する。 |
| 明治25年4月1日 | 前橋市を施行 |
| 明治34年4月1日 | 勢多郡上川淵村から離れ、前橋市に合併する。 |
| 明治43年1月29日 | 天川原村から「天川原」に名称変更する。 |
| 昭和26年10月8日 | 天川原に町を付け「天川原町」に。 |
| 昭和41年10月11日 | 一部が本町3丁目に。 |
| 明治42年5月1日 | 一部が南町3、4丁目、文京町2、3丁目に分割される。 |
以上のように、昔は広範囲の地域が天川原町でした。明治になってからも現在の前橋税務署の東側あたりから、前橋駅近く、旧ダイハツ車体も含め天川原でした。昭和40年代頃までは田園風景が広がり、前橋商高から7中まで見渡せたそうです。この地域が急速に発達したのは、ここ3~40年前からです。明治初期の人口は、17軒97名で、現在は750世帯、2300名です。