
| 明治 23年 2月 28日 | 前橋市天川原町5、農業岩吉・ちか子の三男として誕生 |
| 明治 35年 4月 1日 | 群馬県立前橋中学校入学 |
| 明治 40年 4月 8日 | 東京外語学校スペイン科に入学 |
| 明治 42年 9月 15日 | 外務省留学生としてスペイン・マドリードに到着 |
| 明治 45年 3月 | 外務書記生に任命、在スペイン公使館勤務 |
| 大正 6年 11月 22日 | 外交官領事官試験に合格、チリ在勤を命じられる。南米・ヨーロッパの外交官勤務5年に及ぶ |
| 大正 12年 1月 11日 | 内田康哉外務大臣の秘書官に任命 |
| 大正 13年 1月 16日 | 十文字信介の娘登志子と結婚。南米・ヨーロッパの外交官勤務15年に及ぶ |
| 昭和 12年 10月 22日 | アルゼンチン公使に任命 |
| 昭和 17年 7月 24日 | 広田弘毅に和平を進言 |
| 昭和 18年 3月 31日 | 外務省から退官 |
| 昭和 22年 4月 5日 | 神奈川県知事選に立候補し初当選 |
| 昭和 32年 3月 1日 | 川崎臨海工業地帯造成に着工 |
| 昭和 37年 2月 15日 | 津久井郡城山町にダム建設着工 |
| 昭和 41年 5月 17日 | 県新庁舎落成 |
| 昭和 42年 4月 22日 | 在職21年におよんだ神奈川県庁を去る |
| 昭和 43年 6月 17日 | 登志子夫人死去 |
| 昭和 46年 11月 16日 | 横浜市港北区日吉本町自邸にて死去 |
内山岩太郎小伝から

赤城 榛名 妙義の三山を この地方では″上毛三山″と呼んでいる。内山岩太郎はこの上毛三山を目近に仰ぐ前橋市の南郊、今なお田園地帯の面影を残す天川原の農家に明治ニ十三年(1890年)二月二十八日・父岩吉 母ちか子の三男として生まれた。
長兄春吉 次兄政吉 次弟助左衛門 末弟菊雄、男ばかりの五人兄弟であったが岩太郎は時に祖母ヨシの寵を受けて育てられた。幼少の頃 さして頑健ではなかった岩太郎は 家業の農業を継ぐ意思はなく明治三十五年 十二歳で群馬県立前橋中学に進学した。学制改革で 一般の人より二年も早く中学進学が認められたので中学時代を通じクラスで一番のチビだったといわれ、おとなしい模範生で通っていた。三十八年五月 岩太郎の人生に第一の転機が訪れた。四年に進級したばかりのこの春、前橋中学で校長排斥のストライキ(同盟休校)が起こりおとなしい模範生の岩太郎も その能弁を買われて首謀者に加えられ三十九人の仲間とともに 血判を押して連判状に名をつらねた。後にこの連判状がみつけられ三十九人の仲間はいっせいに放校の処分を受けたのである。
放校処分の通知を受けた時、父岩吉はこれを深くとがめることもしなかったというが、岩太郎は長兄のすすめで上京し 正則英語学校に通って転校のための受験準備に没頭した。同年九月 立教中学四年の編入試験に合格したが、三十九人の仲間のうち九人までがこの時期の受験勉強の過労がもとで若死にしたという。明治四十年四月 東京外語のスペイン語科に入学、かねて南米あたりに雄飛する夢を抱いていたことがスペイン語を選んだ動機といわれるが、この時も奔放豪気な気質の長兄の影響を強く受けている。まだこの時期には外交官志望の気持ちは芽生えていなかった。外語に学んで二年余もはや 当時の外語には彼にスペイン語を教える教師がいないほどに上達した岩次郎は、さらに向学の心を燃やして スペイン留学を思い立った。たまたま外務省の留学生試験があるのを知り天津にいた長兄に相談しただけで、両親には無断でこれを受けて合格 事後承諾を求めた。明治四十二年(1909年)九月、外語を三年中退で退学した岩次郎は、外務省留学生としてスペインの首都マドリードに向かった。弱冠十九歳の時である。
″光あらたに、雲染めて″と神奈川県の県民歌は、戦後新生の鼓動を いきいきとしたリズムにのせて、生活の流れを変えてきた。この″新しい流れ″をつくりあげたのがほかならぬ内山知事であることは 私がいうまでもない ″土に生きる″不屈の上州人気質を丸出しにして、戦後の荒廃から県民を起ちあがらせた内山さんの手腕はいまもって高く評価されるところである。八面六臂の活躍という言葉がある。内山さんはそのとおり進駐軍相手に政府機関顔負けの交渉力を発揮する反面、私の郷土・新潟県にまでも食糧確保に飛び廻ったりまさに内冶外交の多岐にわたり 名知事の名をほしいままにした。内山さんは全国知事会を代表して 私のところにもよく陳情にこられた。温容の中にも烈々たる気概をもって よくそのことに当たり、その見識の高さ 優れた将来への洞察力と常に国家・国民のためにするというその高説はいつも傾聴に価するものであった。「私は内山さんの生前に神奈川県の県民はまことによき知事を得たものだ」といつも深い敬意を払っていたものだ。まことに惜しい人を失ったものである。内山さんが もし いまもってご健在ならば日本列島改造という新内閣の課題にもっともよく応えてくれる第一人者であったと信じてやまない。それを思うにつけ いっそう惜別の情に堪えないものがある。私は心から故人のご冥福を祈るとともに在天の内山さんの御霊が 見守るであろう神奈川県民の上に新しい世紀の光が 燦然と輝きわたることを期待してやまない。
1 光あらたに 雲染めて 七つの汐路 真向かいに
国のあしたの 窓ひらく ああ神奈川は 立つところ
2 風もかがやき 富士はえて ながめもはるか 湘南は
永遠にこころの ふるさとよ ああ神奈川は あたたかい
理想の友の 寄るところ
3 緑はてなく 野に燃えて 実りの夢の わく朝は
つづく海辺に 海の幸 ああ神奈川は なつかしい
平和の花の 咲くところ
人の一生というものは まことに流転激しいものがある。私が政界に志をたてた戦後初期の段階では、わが郷土群馬から内山さんという手腕家大物知事が神奈川県に君臨しており、大磯の吉田さん(故茂総理)となかなかウマがあう関係にあるとよく話しに聞かされていた。その頃は なんとなく上州人という郷党意識で神奈川県知事内山さんのご活躍ぶりによそながら賞讃をおくってきたものだ。その後 演説会等で横浜へいく時は「県庁へよって内山さんに敬意を表して来よう」と思いながらも、日程の都合で駄目になったことも幾度かあった。ところが 時が流れて 私の政界基盤は故河野一郎先生を中心とする行動的反骨グループと変化するに及んで、吉田嫌い=内山嫌いすなわち河野一郎というイメージが世間に高まるにつれ、間に入って いささかの気苦労を背負うことになったのも、わが半世史の一頁に書き加える事実である。郷党人かならずしも政界の道で同化し得ざる悩みは またつらいものである。時移り星変わって 私が運輸大臣在職時 よく内山さんから陳情を受けた。外交官出の内山さんはいつも国際的視野に立って ものごとを判断されていたがそのひとつにジュネーブ的立場の箱根圏で整備を考えておられたようで、私に箱根国際観光会議場の建設案を示され、国費をつけるよう申し出てこられたのである。「内山さん どうせおやりになるんなら すくなくとも五十億円位の国費をもって立派なものをおつくり下さい」と激励したことを いまもって記憶している。そのとき内山さんは 生気よみがえるという心情を示され、たいへん喜んでおられたが、いまだ実現しないというのに ご他界されたことは 実に残念である。今年も箱根で 日米経済会議が催されたがこんなとき「会議場」がつくられていたら、どれ程意義深いものがあったことだろうか・・・・・しみじみ述懐される内山さんの発想は 実に優れている。第二の故郷・神奈川県の基礎づくりに これほど情熱を注がれた名知事は他にいない。後継者の津田文吾知事とは 大学同期の桜でもあるし、内山さんの遺志を活かした神奈川県のあたらしい県土づくりには大いに協力を惜しまぬ気持である。上州の内山さんを、いま「神奈川県の父」とも仰いで慕ってくれている大勢の皆さんを想うとき、私は襟を正して「内山さんの神奈川県」発展のためおおいに犬馬の労をつくしたいとお誓いするものである
同郷の盟友のこと 福田赳夫(前外務大臣・衆議院議員)
内山さんと私は いずれも同郷群馬県の出身だが、外交官時代の内山さんとは これというつき合いもなく相まじわるようになったのは 内山さんが神奈川県知事に任命されてからです。その頃の神奈川県知事は占領軍との接触 櫛のように貧隙でありましたその渉外事務をよく捌き、 米軍との間にさしたる摩擦もなく 神奈川県政が進められ外交官上がりという 異色の知事の名声噴噴たるものがあり、″内山外務大臣″の呼声が高かったことを記憶している。神奈川県には政界一方の雄であった河野一郎氏がおりこの名知事と反りが合わなかった事は有名な話である。だから知事選挙の際など 一向に河野さんの応援は得られなかったのみならず、殆どの人が河野さんに遠慮してか 内山さんの応援に行かなかった。私としてはそういう立場の内山さんをほおっておくわけにはいかず、まして同郷人であるので選挙の度ごとに 内山さんをお願いしますと神奈川県民に訴えたものです。二人でオープンカーに乗って県下をかけ回ったこともしばしばあります。柔和なあのエビス顔 仏のような顔立ちのあの内山さんが、街頭では怒りをこめて「県民の皆さん 私は今社会党の候補者と戦っているのではありません。私は日本の国を乱す中央政界の大物と戦っています」と叫ぶ。阿修羅ののような 内山さんの怒号の姿を思い出します。内山さんは内柔外剛 温和な姿の中にきびしい心の通った性格でした。まさにその気質は 上州人の典型とも言うべきでしょう。正しい事はどこまでも押し通す、これは邪であると思った事はとことんまでぶち当たっていく。だから味方も多かったが 敵も多かったように思います。こんな気風が私とはそりが合うというのか、私と内山さんとは 肝胆相照らす交わりを結び神奈川県知事としての内山さんの中央へのパイプ役は河野さんでも 藤山さんでもなく 私が万事受けたまわるという次第でした。多年内山さんが提唱していた国際会議場を芦ノ湖周辺へという案件がありました。その国際会議場が 河野さんの意見もあり藤山さんが主張していた京都に決まったことが特に内山さんを刺激したようです。だが内山さんは それにひるむ事なく京都の他にさらに箱根にも 国際会議場の設置運動を進め、私も加勢し 着々とその運動も成果を上げていたが、その着工を見ないまま 逝去されてしまいました。内山さんの心残りの一つだったと思います。いまは亡き内山さんについては あれこれ懐かしいことばかりです。故人の遺徳を偲ぶまごころのこもった沢山の手記が寄せられているとのこと、ひとごとならず同郷のわが盟友の供養のために なによりの手向けになると生前の親交をもったひとりとして まことにありがたいことと感銘しています。
つつじの花の咲くたびに 神田 坤六(群馬県知事)
群馬県の県花はつつじの花でありますが、とりわけ赤城山のそれは見事なものであります。わが群馬県に生まれ、神奈川県知事としてふかく敬愛された内山岩太郎先生は、群馬県立前橋中学校(現前橋高等学校)に学ばれたのでありますが、この学校は伝統も古く 質実剛健を校訓にしており、例年赤城山登山を実施してきたようであります。少年のころに赤城の山ぶところにいだかれた華麗な心の泉はいつまでも涸れることがなかったのであります。内山先生にお会いする機会の多くは 知事会議の時でありましたが、卓越したご見識は正に真実を指し示しており、郷党の先輩として尊敬いたすばかりでなく政治家としてすぐれた方であるとかねがね存じていたわけであります。先生は常に「いいものは長持ちする」といわれておりました。いかにも内山先生らしい言葉であります。自信にあふれた言葉であります
私はそれほど自信はありませんが「いいもの」「良い県政」を指向してまいりました。その結果として長持ちするならばまた先生のお言葉に添うのぞましいものでありましょう。春風駘蕩の間に とくに私に、「群馬は僕の郷里なのでよろしくたのみます」といわれたのも昨日のことのように思い出されるのであります。つつじの花が山間で美しく咲くように 人に知られようと知られまいと懸命につとめる姿を私は傍らから見てきたのであります。空と水の美しい群馬県の発展を内山先生のこころを生かす路線で歩んできたことを申しあげて先生の思い出といたします。
その魅力 栗原 浩(前埼玉県知事)
内山さんはなつかしい人である。個人的には特に親しい間柄であったとも言えない私がこれほどまでに内山さんをなつかしむその魅力は 一体何であろうか・・・・たしかに あの長身で温顔 どこから見ても立派な日本人である風貌もその要素の一つではあるけれどもそれよりも大事なことは 内山さんの人となりである。内山さんは周囲の動きなどに気兼ねをして自分の姿勢を崩すようなことは絶対にしない信念の人であった。同時に 人情に厚い文化人であった。ここに形成される高雅な人格が内山さんの魅力の源泉であったようである。内山さんの外交官としての また知事としての数々の功績を語れば際限のないことであろう・・・そこで私はただ一つ忘れ得ないエピソードを語るにとどめよう。ある年の年のはじめに NHKが関東の知事たちを集めて新春座談会を催したことがあった。その席で内山神奈川県知事は開口一番、「群馬県民の皆さん 明けましておめでとうございます」とやったのである。並み居る他県の知事はもとよりNHKの司会者も一瞬内山さんの方を振り向いて、内山さんは何か間違いを犯したのではないだろうかと怪訝な顔をした。ところが 内山さんは悠々迫らず「神奈川県のみなさんも 明けましておめでとう」と続けたのである。これは神奈川県知事の新春の挨拶としては異例のことであろう。内山さんは群馬県に生をうけられた。広く世界的な活動をなされた内山さんではあるが父母への敬慕とともに 故里の山河はいつどこにあっても内山さんの脳裏から去ったことはなかったのであろう。それが内山さんの人間形成の基礎であるがために節目折目には 故里の山河がその瞼をかすめたのであろう。内山さんはまた強い紀元節復活論者であった。あらゆる会合で 機会あるごとに紀元節の復活を提唱された。この精神は 即ち故里への敬慕にはじまり家庭愛 郷土愛 祖国愛につながり、民族の歴史と伝統とを尊重する信念となって内山さんの心のなかで渾然一体化していたのであろう。そこに いうべからざる内山さんの人間的魅力があった。私たちの人生は 人と人との出合いの歴史だともいわれる。優れた人物に沢山出合うことができた人ほど、その人の人生は幸福であるといえる。こういうことから 私は今はなき内山さんとの出合いに心から感謝しているのである。
父と私たち 内山 勇(内山岩太郎氏三男)
わが家における父と子の関係は、儀式張るとか 徹底的雷親爺であったかというと そうでもない。子供の側からは半ば畏敬に近く、父から子へは慈愛の中にも無言の中に何か教えるといったもので、われわれは父に対し 常に数メートルの隔たりをもってつきあったと思える。その結果亡き母が生存中″あなたたちはどうしてパパには敬語を使って話すがママにはそのような ぞんざいな言葉を使うのだろうね″といっていたのを想い出す。これなどは子供として 両親に何か頼む時も父はちょっと手強い感じなので いきおい母に要求して母から父の承認を取って貰おうという 間接戦法を取ったためで、いわば母が家庭内の緩衝装置の役目をしていたといえるのではないだろうか。わが家のこういった機構も 母が父より一歩先に他界してしまったため、母亡き後の父に対して 初めて直き直きの交際というものに変化していった。ただ この時期の父は 既に歩行が不自由になりつつありまた日増しに無口となりつつあったので、私どもは この期間は寧ろ 裸の交際をしたかったし父の永年の苦労に僅かながらでも報いたいと思ったが、結果的には 家中が総看護人といった形になってしまい、われわれの最後の望みも充分果たせなかったのはつくづく残念であった。以上を読まれた方にはわが家の関係は案外不自由だったと思われるかも知れないが、それでも父を身近に感じたことは過去にはあった。それは戦時中のことで われわれ家族全員が東京の本郷で空襲に遭い、必死の消火作業も空しく 命からがら丸焼けとなってから終戦直後までの約5ヵ月弱の期間である。この間 われわれは二度焼出されては大変だという気持ちとたまたま近所で一軒だけポツンと焼け残った当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの二階家におられた。歯科医の鈴木 小林両先生のご好意で病院の二階の患者待合室をお借りして、その約十畳ほどの部屋に一家総勢七名が移り住んだことがある。空襲の際は 日頃 母がいざという時は かようにすべしと徹底させていた。寝具類の持ち出し方に従ったお蔭で われわれは焼出された翌日から一応掛布団も敷布団も不自由せずに済んだが朝となり 布団をたたんで片附ける段になると、十畳の室の隅にそれらを積み上げ その傍で食事もし一切合切全部やる訳ゆえ かなり狭苦しい思いをした。そのころ東京の空襲は月に二、三度かなりの規模のものがほぼ定期的にあり、われわれは昭和二十年の四月に焼出されたのであるが、まだ焼出されていない人も 明日はわが身という具合でいずこも不安な日日を送っていた。父の長い人生において 父が本当に裸で生活したといえるこの時期は苦しくもあったが 毎日が生きる喜びを意識した連日であったような気がする。それは 正真正銘生命の危険をくぐり抜けて生きていたという連日だっただけに、家族全員が無事であったという喜びを齟みしめることができたのであろう。
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叔父と叔母のこと 内山清市(内山岩太郎氏甥)
私が小学校六年の正月 叔父は美しい花嫁さんを伴って帰省した。子供心に 自分も大きくなったらああいう綺麗なお嫁さんを貰いたいと思った。祖母は何かにつけ岩太郎を見習え 男が大きくなって内地におるような意気地なしではだめだとよく私ども孫達にいった。また天子と同じように 岩太郎には目の上にイボが一つあると自慢した。私が中学校に入学したら 勉強だといって 叔父叔母からの手紙を読まされ 祖母の代筆をさせられた。いつしか私は胸に 中国大陸雄飛の夢を抱くようになり中国留学生に門戸を開放し 中国語の講座をもつ早稲田大学に入学した。さらに夜間 東京外語学校支那語専科に入り勉強した昭和九年夏 子供たちを内地の学校に入学させるため 叔母は一時帰朝した。このとき 私は大学三年であり 卒業後の就職問題を控えていた。夏休みも終わり私は学校から満鉄に推薦を受けたが パスするには不安があった。子供達も学校に行き始め 叔母もくつろぎ歓談したとき私の就職に話しになった満鉄は大変だ。 叔父がおるなら叔父が心配してくれるが といって早速 青木信光子爵 川上俊彦元満鉄理事を紹介してくれた。試験の発表を待たず叔母は勇君だけをつれてブラジルへ向けて横浜港を出帆した。十二月五日夕刻 採用内定の電報を受取り直ちに船中の叔母あて電報したら、折り返し叔母から 喜びの言葉とよい嫁さんをきっと世話するから しっかり勉強して欲しいとの手紙が来た。昭和十四年春 叔母より帰朝したから帰京しないか との電報が来て元日の朝叔父の家に着いたら、挨拶はどうでもよいから清市さん この子は良いから嫁に貰えと横田喜三郎東大教授の親戚に当る正代の写真を見せてくれた。もう私の嫁はきまったような口ぶりであった。三月三十日 芦田均ご夫妻の媒酌 叔母が母代わりで挙式した。叔父によいみやげができたと喜んで叔母は早々にアルゼンチンに帰った。三十年の夏 一度だけ叱られたことがあった。そのときは分からなかったが後で有志の方が私を県のある施設長に推薦したのを私が猟官運動をしたと誤解したようであった。その後有志の方々のご心配により 職業訓練分野で働くことになった。定年で 職業訓練大学校を昨年九月三十日退職 翌日から帝京大学に勤務、保母幼稚園教員養成に従事。正代も帝京大学と都立練馬高等保母学校に音楽講師として勤務している。叔父叔母は 私どもの運命の手綱を握り人生の道案内をしてくれた。また叔父叔母に好意を持った方々が私どもにも好意をもって支援してくれた。
(ページスペースの都合で文の一部を割愛・編集させていただきました)
遺 墨

昭和29年揮毫

昭和36年揮毫

昭和47年揮毫
編集後記
このホームページを編集するにあたり 内山家ご本家から
「光あらたに 内山岩太郎先生追慕の記」を資料としてお借りしました
初代公選神奈川県知事 内山岩太郎氏の郷土群馬に寄せられた想いと
内山岩太郎氏ご夫婦の家庭人としてのお姿を紹介いたしく
各界から寄せられた二百余編から 七編のみを掲載させていただきました
偉大な外交官 偉大な神奈川県知事内山岩太郎氏のご冥福を祈り結びます .
編集責任者 水野泰治